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何故私はF1の虜になったのか その4(マンセル伝説後編) [F1]

マンセル伝説,後編まいりましょう.

  • ファイナルラップでストップ(1991年カナダGP)
    この年からマンセルは古巣ウィリアムズ・ルノーに移籍.チームメイトはリカルド・パトレーゼ.シーズン序盤はセミオートマティックトランスミッションに問題を抱え,結果が出なかったが,第5戦カナダGPでフロントロウ独占と調子を上げてくる.マンセルは最終ラップまでトップを独走.ところが,ピットヘアピンの立ち上がりでエンジンがストール.チェッカーを受けることが出来なかった(リザルト上は6位完走).このエンジンストールには諸説いろいろあるが,マンセルが手を振っていてキルスイッチを押してしまったというのは流石にネタだと信じたい.個人的にはクルージングでペースを落としたために電気系統のトラブルが発生したと信じているのだが…マンセルだからなぁ….
  • 真夏の3連勝(1991年フランスGP・イギリスGP・ドイツGP)
    真夏の名物高速3連戦で他車を圧倒.ポイントランキングトップのセナに急接近.
  • 悪夢のタイヤ離脱(1991年ポルトガルGP)
    予選4番手からスタートしトップを快走.ところが運命のピットイン.作業終了後,スタートしたマンセルの車から右リアタイヤが外れてしまう.ピットクルーはあせりピットロード上で作業を行なった.このことにより失格となり,チャンピオン獲得の可能性が遠のいてしまう.
  • こんなときに足を捻挫(1991年スペインGP)
    マンセルはドライバー,プレスのサッカー大会に参加.シュートを放ったところ足がもつれて転んでしまう.チャンピオンシップの掛かった大事なGPで左足を捻挫.もし捻挫したのが右足だったら…,もしウィリアムズがマニュアルトランスミッションだったら….一体どうするつもりだったのだろう.幸いにしてレースでの支障はほとんど無く,優勝をかっさらっていくマンセルであった.
  • チャンピオン目前で…その3(1991年日本GP)
    ポイントリーダーのセナに対し16ポイントのビハインドで向かえた第15戦日本GP.マンセルはベルガー,セナのマクラーレン・ホンダに続く3番手からスタート.優勝しなければチャンピオンへの可能性が途絶えてしまうマンセル.セナのブロックでマンセルを封じ込め,ベルガーを逃がすマクラーレンの作戦に翻弄されてしまう.10周め,マンセルはセナをオーバーテイクしようとホームストレートで急接近.ところが,1~2コーナーでダウンフォースを失いコースアウト,そのままリタイア.三度マンセルはチャンピオンを逃してしまう.
  • セナとの死闘(1992年モナコGP)
    1992年,開幕より5連勝と勢いの乗ったマンセル.6連勝を目指してモナコGPへ.当たり前のようにポールポジションからスタートしたマンセル,このまま独走で6連勝かと思われた70周め,マンセルがタイヤトラブルでまさかのピットストップ.セナ(マクラーレン・ホンダ)に先行を許してしまう.そこからが歴史的なバトル.マンセルはファステストラップを連発しセナを猛追.追いついてからは2人のドッグファイト.圧倒的なスピードのマンセルであったが,セナの巧妙なブロックで抜くことができない.結局セナの優勝,マンセル2位.レース後のマンセルの疲労困ぱい振りがバトルの激しさを物語る1戦であった.
  • 謎の単独クラッシュ(1992年カナダGP)
    この年初めてポールポジションをセナに譲った1戦.スタートもセナが決めマンセルは2番手追走のかたちとなる.焦れるマンセル.14周めに最終コーナーでグリーンに飛び出しリタイアとなる.セナのブロックが原因と信じて疑わないマンセルは怒り心頭.わざわざセナが戻ってくるまでマシンに座っておき,セナに怒りのジェスチャーを見せる.それでも収まらないマンセル,今度はロン・デニスにも抗議.しかし,セナのコメントやビデオを見ると,マンセルのオーバースピードが原因の単独クラッシュであったと思われる.
  • 地元GPでグランドスラム(1992年イギリスGP)
    第9戦イギリスGP.マンセルは予選で2番手のチームメイト・パトレーゼに対し1.9秒(!)の差をつけポールポジションに(ちなみにもし107%ルールがあったとすると13位以下が予選落ちとなる,と書けば物凄さが分かるだろうか).スタートこそパトレーゼに先行を許すもハンガーストレートで逆転.結局,ポールポジション,ファステストラップ,全ラップリーダー,優勝のグランドスラムを達成.またまた興奮した地元ファンがコースに乱入し大騒ぎとなる.
  • 夏の終わりのチャンピオン(1992年ハンガリーGP)
    ポイントランキング2位のチームメイト,パトレーゼに対し46ポイントもの差をつけて迎えた第11戦ハンガリーGP.マンセルは2番手からスタート.途中タイヤのトラブルがあり順位を落とすもファステストラップ連発でベルガーをかわし2番手浮上.そのままゴールでなんと8月中にチャンピオンを決定してしまう.なのに,ウィリアムズとの契約は更新されず,すったもんだの末翌1993年はCARTシリーズに参戦することとなる.
  • CARTでも大活躍(1993年CARTシリーズ)
    ニューマン・ハースレーシングチームに所属してのCART1年め.マンセルはオーバルコースもこなし活躍.結局この年4勝をあげたマンセルはCARTでルーキーにしてチャンピオンを獲得してしまう.
  • ピンチヒッター参上(1994年フランスGP・ヨーロッパGP・日本GP・オーストラリアGP)
    この年ウィリアムズに移籍したアイルトン・セナがサンマリノGPで事故死.チャンピオン不在のシリーズのてこ入れ策としてバーニー・エクレストンの画策でマンセルをCARTシリーズの合間にウィリアムズ・ルノーからスポット参戦させることに.フランスGP,ヨーロッパGPではいいところは無かったが,大雨の日本GPで4位入賞.オーストラリアGPではチャンピオン争いをするミハエル・シューマッハ(ベネトン・フォード)とデーモン・ヒル(ウィリアムズ・ルノー)の接触事故でシューマッハのチャンピオンが決定したややしらけ気味のサーキットで通算31勝めを挙げる.これがマンセルの最後の勝利である.これで引退する…のかと思えば.
  • 蛇足・マクラーレンとの契約(1995年シーズン)
    誰も予想していなかったマクラーレン・メルセデスとの契約.厳格なロン・デニスと無法者のマンセルの食い違いが発生し空中分解するものと思った.その予想は的中.マンセルは「シートが合わない」ということでブラジル・アルゼンチンの両GPを欠場.サンマリノ・スペインの両GPに出場するも,10位,リタイアといいところ無くそのまま契約解消でフェイドアウト.元ワールドチャンピオンにしては少し寂しいF1からの引退であった.

まぁ,マンセルというドライバーというのはこのようなことをしていた訳だ.荒っぽい走りに見えて実は緻密な走りができたり,デカイ態度をとる割にはノミの心臓だったり….今のF1にはいないやたらエンターテイナーなドライバーだったと思う.これからもGPマスターズは続いて欲しいし,マンセルがそのけん引役となって欲しいと思う.こんなところで!

追記:もう忘れている方もいると思いますが,本当は映画を紹介したくて記事を書いてるんですよ.時事ネタ的にマンセルの話になってますが.ということで次こそ映画の紹介をします.


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